2009年06月16日

相手に向かって両目を閉じる

親愛の情を持っている相手と目が合うと、両目を閉じることがある。ときに、そっぽを向く行為を伴う。ネコにとって目を合わせる行為は敵意を意味するので、これは逆に友好をアピールしていると言える。

ネコの習性をよく知らない人間から見ると無視されたように感じる仕草であるが、実際には両目でウインクしているようなものと思えば分かりやすい。猫に慣れた人は見知らぬ猫に近づくとき、この性質を利用して、自らの目を閉じて、猫を警戒させないようにする(この場合、視線は猫の目の高さまで落とすこと)。
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愛情があるのに噛む [編集]
本当に噛み切るつもりではなく、甘えて飼い主や他のネコを興奮して噛む事がある。これは手のような手ごろな接触手段を持たない動物によく見られる習性である。また、親猫は子猫の頸(くび)の付け根をくわえて携行し、ネコはその場所を噛まれるとおとなしくなる(この事を利用して交尾の際にオスがメスを噛んだりする)。ネコの習性をよく知らない人間から見るとなぜ噛み付かれたのか判らず、戸惑う行動であるが、ただ甘えているにすぎず、噛んでも相手が反撃しないのを確認して自分に対する愛情を確かめているだけである。「痛い」と口に出して伝えたり、大げさに痛がる仕草をして見せれば、徐々に力を抜いた甘噛みを覚えていく。痛いからといって叩くなどして叱責すると、自分に対する愛情を疑うようになり、すねてしまう場合もある。

母親の乳房に見立てて吸い付く [編集]
幼いうちに母猫と引き離された場合など、毛布や飼い主の唇を母猫の乳房に見立てて吸い付くことがある。両前足を周囲を揉むように動かす。うっとりとした表情をし、放っておくと30分くらい続ける場合もある。その動きから、日本語では「フミフミ」「チュパチュパ」等、英語では「ウールサッキング」などとも呼ばれる。

トイレの所作 [編集]
ネコの最も象徴的な行動で、「ねこばば」の語源にもなっている。用を足す前に砂を掘ってくぼみを作り、用を足した後、砂をかける。初めのうちどこがトイレか認識できない場合があるが、そういったときはネコの様子を見て催しているなと思ったら、すばやくトイレに移してやり、用が済んだら大げさに褒めてやることが大事である。躾(しつけ)をする事でネコも人間用のトイレを使用させる事ができる。しかし、年をとるとトイレにのぼることがつらくなるので、人間用のトイレでなく、ネコ用のトイレを使用させた方が良い

臭い物に砂をかける仕草をする [編集]
用を足す場合でなくても、臭い物を見つけたとき、実際に砂が無くても砂をかける仕草をする。

喧嘩 [編集]
長い口喧嘩を経てから、格闘になる。口喧嘩は、一方が低音で唸ると他方は高音で返すなどの特徴が窺える。通常は1対1の喧嘩であるため、人間が喧嘩の声に似せて横槍を入れると、気味悪がって喧嘩を中止することもある。喧嘩・格闘は、跳びかかりやすく有利な高所を制した側が優勢で、そのため、戦略的ポジションを探りながらの口喧嘩が長時間続く。格闘になるとほんの数秒で決着する。

2009年05月30日

磐井の乱

磐井の乱(いわいのらん)とは、527年(継体21)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野(おうみのけな)率いるヤマト政権軍の進軍を筑紫君磐井(つくしのきみいわい)がはばみ、翌528年(継体22)11月、物部麁鹿火(もののべのあらかい)によって鎮圧された反乱または王権間の戦争。この反乱・戦争の背景には、朝鮮半島南部の利権を巡る主導権争いがあったと見られている。

磐井の乱に関する文献史料は、ほぼ『日本書紀』に限られているが、『筑後国風土記』逸文(「釈日本紀」巻13所引)や『古事記』(継体天皇段)、『国造本紀』(「先代旧事本紀」巻10)にも簡潔な記録が残っている。

なお、『筑後国風土記』には「官軍が急に攻めてきた」となっており、また『古事記』には「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」とだけしか書かれていないなど、反乱を思わせる記述がないため、『日本書紀』の記述はかなり潤色されているとしてその全てを史実と見るのを疑問視する研究者もいる。

真偽は定かでないが『日本書紀』に基づいて、磐井の乱の経緯をたどるとおよそ次のとおりである。

527年(継体21)6月3日、ヤマト政権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した(いずれも朝鮮半島南部の諸国)。この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)へ贈賄し、ヤマト政権軍の妨害を要請した。

磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言ったとされている。ヤマト政権では平定軍の派遣について協議し、継体天皇が大伴金村・物部麁鹿火・許勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命された。

528年11月11日、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト政権軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。日本書紀によると、このとき磐井は物部麁鹿火に斬られたとされているが、『筑後国風土記』逸文には、磐井が豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ(ただしヤマト軍はその跡を見失った)と記されている。同年12月、磐井の子、筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉をヤマト政権へ献上し、死罪を免ぜられた。
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乱後の529年3月、ヤマト政権(倭国)は再び近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせている。

以上のほか、『筑後国風土記』逸文には交戦の様子とともに磐井の墓に関する記事が残されている。また、『古事記』は、筑紫君石井(いわい)が天皇の命に従わないので、天皇は物部荒甲(あらかい)と大伴金村を派遣して石井を殺害させた、と簡潔に記している。『国造本紀』には磐井と新羅の関係を示唆する記述がある。

2009年04月27日

スカイラブ計画

スカイラブ計画(Project Skylab, 計画番号 SA-513, SA-206, SA-207, SA-208)は、アポロ計画に用いられたサターンV型ロケット・サターンIB型ロケットを利用した宇宙ステーション計画である。アメリカ合衆国が初めて建設した宇宙ステーションで、人間が滞在するものとしては世界で2番目になる(世界初は旧ソ連のサリュート1号)。地球軌道上を1973 - 1979年まで周回し、1973 - 1974年にかけて都合3回、9人の宇宙飛行士が滞在した。微少重力の影響を実験するための装置や、太陽観測のための展望台 (Apollo Telescope Mount) を備えていた。Skylab の名称は NASA の公募によってつけられた。lab は laboratory(実験室)の略。

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スカイラブ1号はサターンV型ロケットの第3段の内部に居住空間をつくることで、地球軌道上を周回する宇宙ステーションに改造したものである。1973年5月14日に無人で打ち上げられた。

スカイラブ1号の構造は大まかに、

軌道作業モジュール - サターンVの第3段を改修
エアロックモジュール - 中間部
多目的ドッキングモジュール - 先端部
の3箇所からなり、多目的ドッキングモジュールには宇宙望遠鏡が取り付けられている。乗員はスカイラブ2号 - 4号で運ばれ、多目的ドッキングモジュールの先端(写真の向こう側)から月着陸船と同じ要領でドッキングし、スカイラブ1号内部へ乗り込む。

本来であれば軌道作業モジュールの左右それぞれに太陽電池パネルを展開する予定であったが、打ち上げ時に予想外の空気抵抗が発生したため、片側の太陽電池パネルと隕石防護パネル・熱遮蔽シールドが脱落するトラブルが発生。そのためにスカイラブ2号到着時点でモジュール内の生存環境は十分整っておらず(到着時点での機内温度は50度以上)、船外活動による機体補修後に運用を始めた。軌道作業モジュールの四角い熱遮蔽シートは、補修の際に取り付けられた。補修はその後のミッションでも行われている。

宇宙ステーションとしてのスカイラブは1台(スカイラブ1号)しかない。スカイラブ2号 - 4号は、アポロ計画の司令船・機械船を転用したスカイラブ1号への乗員往復船につけられた名称である。それぞれ3名が司令船に搭乗し、サターンIB型ロケットで打ち上げられ、無人のスカイラブ1号へドッキングする仕組みであった。滞在後は乗員が再び司令船に乗り移り、帰還した。ミッション内容として

地球・太陽の観測
無重力空間における生理現象の研究
無重力下での半導体・金属結晶の生成
生物・微生物の行動観察
といった科学的実験などが行われた。中でも太陽活動の観測と「宇宙グモ」は有名である。

2009年04月11日

赤色巨星

赤色巨星(せきしょくきょせい)とは、恒星が主系列星を終えたあとの進化段階である。大気が膨張し、その大きさは地球から火星の軌道半径に相当する。肉眼で観察すると赤く見えることから、「赤色」巨星と呼ばれる。厳密には「赤色巨星」と「漸近赤色巨星(あるいは漸近巨星分岐星)」と二つの進化段階に分かれている。赤色巨星という言葉は時によって、狭義の赤色巨星のみを指す場合と、漸近赤色巨星も含めた広義を指す場合とがある。

誕生したばかりの恒星は中心部の水素の核融合反応で輝いているが、歳をとった恒星は中心部の水素を使い果たし、核融合でできたヘリウムからなる中心核と、それを取り巻く水素の外層という構造に変わる。これにより、ヘリウム中心核のすぐ外にある水素の層で核融合がはじまる。中心部はエネルギー源が無くなるため、自己の重力で収縮していく。この時に重力エネルギーの解放で熱が産生するため、核融合が起こっている外層部分は常に加熱される状態になる。これによって核融合反応が加速され、核融合で生じた熱によって外層は外へと膨張しようとし、重力による収縮を上回るようになる。そのために星の外層は大きく膨らみ、星の表面温度は相対的に低下するため色は赤く見える。

この膨張状態は中心部でヘリウムの核融合反応がはじまって収縮を支えられるようになると一旦解消されるが、中心部のヘリウムが使い果たされてより重い炭素や酸素の核ができ、ヘリウムの外層で核融合が起こるようになると再び膨張が起こる。

赤色巨星の外層は星の中心から離れているために重力による束縛が弱く、徐々にガスが星から流出していく。そのため恒星は外層を失い中心核が露出する。ここで核融合反応が終了したものが白色矮星となる。流出したガスは惑星状星雲として観測される。

質量が太陽の約8倍よりも重い星の場合には、核融合の「灰」として重元素の中心核ができる→中心核が重力収縮する→収縮によって温度が上昇する→「灰」である重元素の核に核融合反応の「火」がつく、という反応を繰り返し、重元素の核がタマネギ状に作られていく。最終的に中心で鉄の原子核が作られると核融合は停止し、中心部は熱エネルギーによる膨張力を失って急速に重力収縮し、反動で超新星爆発を起こして中性子星やブラックホールを残す。

赤色巨星の例
くじら座のミラやおうし座のアルデバラン、はくちょう座W星、うしかい座のアルクトゥルス等が赤色巨星の代表的な例としてあげられる。また、太陽もあと約50億年もすればこの赤色巨星と化し、白色矮星へと変化していくだろうとされている。

赤色巨星のうち、特に光度や直径が大きいものを赤色超巨星と呼ぶ。普通の赤色巨星は太陽の1-8倍程度の質量しかないのに対し、赤色超巨星は太陽の10倍以上の質量を持つ。赤色超巨星の代表的な例としては、オリオン座のベテルギウスやさそり座のアンタレス、ケフェウス座のガーネット・スター等があげられる。

まっち棒 きたみ ショートス バルト デンバー トスタチン チップ はじめて ばんか カラー ニュー ラジウム アドミラル プロフィット ネリカ スレッド 恋草子 ラッカー プレミア コリック サーフス ケード アサイン サーチ大潮 リンガ メイリオ オブラー ソクラ コサック からし菜 パラリ ゲバ上位 ヌーデン セルフレジ 草枕 トング 夢の果て ホソル びわ検 ひつじの涙 チャイ ナッツ パー 対策リマ ブラボ タイム ラングーン メキシコ ハクサンイ かいらん


2009年03月27日

ブリチラ

ブリチラは、パンチラと同様に男性下着であるブリーフやビキニブリーフが垣間見える現象を意味する。男性下着のブリーフとチラリズムを合成した俗語である。女性下着を対象としたたパンチラの対義語にあたる。

ブリチラはチラリズムの一種である。女性用下着のパンチラ同様、男性用下着であるブリーフやビキニブリーフを対象としたブリーフとチラリズムを合成した俗語である。チラリズムも元々、1951年(昭和26年)の流行語であり、女優の浅香光代が舞台での立ち回りの際に太股をチラリと見せたことから発生した俗語である。

チラリズムは「ちょっとだけ見えることから、気付かれていなかった欲求を励起し、想像力がかき立てられる」といった効果を引き起こすものである。広告・演出手法で言うとティーザー(teaser・焦らし)が該当する。「意識してもろに見せる」のではなく、「見せるつもりはないが、何らかの事情でちょっとだけ見えてしまった」ものを意味する。特に、性的なチラリズムは、心理的に見られた当人に隠すべき身体の秘部を他人に晒してしまった羞恥心を発生させ、目撃者は一種の優越感や特権を得られた気分を有することで満足感が高まることである。

ブリチラは概ね、半ズボンや短パンの裾からブリーフが垣間見える状態を指す。陰部を覆う下着であるブリーフは半ズボンや短パンの裾から垣間見えると、絶対領域の太股から鼠蹊部までの肌が露出しており、陰部に密着していることからモッコリ感があり、しかも陰部の形状が生地を通じて浮かび上がっているように見えることでチラリズムとしての注目度は高い反面、トランクスでは陰部が直接見えてしまうこともあるのでチラリズムは励起させず、想像力をかき立てられないことから「トラチラ」などの俗語は一般化していない。他に男性下着のチラリズムの俗語に、着物の裾から越中褌や祭り等で半纏の裾から六尺褌が垣間見える「フンチラ」なる俗語も存在する。

ブリチラという俗語を対象とする男性は主として若い男性、大概は半ズボンを着用する少年や短パンを着用する男性スポーツ選手を対象に用いられ、中高年以上の男性にブリチラの俗語が用いられることは希である。これは近年、ブリーフやビキニブリーフが青少年の間でトランクスやボクサーブリーフ人気に押されてブリーフやビキニブリーフを着用する青少年が減少している反面、中高年ではまだブリーフ着用者が多いことによる希少価値によるものや、ブリチラが起こりやすい丈の短い半ズボンや短パンの着用が青少年に多い露出機会の多寡によるものの他、体型が崩れて性的魅力を失った既婚者の多い中高年のブリチラでは羞恥心を失った中高年のだらしない格好によるもので、ブリチラの価値に値しないものとの判断されているからである。これはパンチラでも若い女性を対象として用いられているものと同じ理由でもある。
シャンツェ こせん スーフィ フォーミュ 枯葉の輪舞 ペーンイウ ハヤシライ テラー ミズナラ コード ナウル コメン すぎな 全国情報 黒皮かぼち バイオス 黄金魂 フィーン ハング 明日へ ダッカ がんばれ ダッキ ダーティ 首飾り ヌメア オンシー オーオー シンク フライシト ボヨール アングル モサド フローリス カーフス ハラン フラット りーすりん マテリア 八千代 えびす ストーン シイ人気 ゆうすい ジェション 優しい雨 ソフト ブロック アルジェ ウジュン

ブリチラもパンチラ同様に盗撮などの過激な行動に走れば、相手のプライバシーを侵害する窃視や出歯亀行為に相当して性犯罪が成立する行為である。また、対象が被害を訴え難い少年であると、世間一般からは児童ポルノと認識されている。

チラリどころではなく、モロに下着が見えてしまっているような状況を「モロパン」や「パンモロ」などと呼ぶ場合がある。ズボンから下着がはみ出して見える状態は「ハミパン」を指し、下着から男性器がはみ出して見える状態を「ハミキン」や「ハミチン」、「ヨコチン」と呼び、性器が丸出しで見える状態を「モロダシ」と呼ぶ俗語が定着している。

2009年03月11日

グリニッジ

グリニッジは大ロンドン南東部の町で、グリニッジ・ロンドン特別区のテムズ川南岸に位置している。グリニッジ標準時の基準となる都市として、また「マリタイム・グリニッジ」(海事都市グリニッジ、河港都市グリニッジ)の名でユネスコの世界遺産に登録されている由緒ある港町として、よく知られている。

伝統的なイギリス英語では「グリニッジ」(['???n.?d?], "GRIN-idge") [1]だが、現在は「グレニッチ」(['??en.?t?], "GREN-itch") [2]が通用している。ただし、地元では「グレニッジ」(['??en.?d?], "GREN-idge") や「グリニッチ」(['???n.?t?], "GRIN-itch") も代替可能な発音として受け容れられている。ただし、アメリカの地名では一般的な「グリーンウィッチ」(['???n.w?t?], "GRIN-witch") という発音は、この都市の発音としては不適切と見なされている

グリニッジは北緯51° 28' 38"、経度0º 0' 0"に位置している。

水運と密接に結びついてきたグリニッジの歴史的建造物群は、世界遺産に登録されている。

グリニッジ天文台がある都市としてよく知られており、この天文台をグリニッジ子午線が通っている。かつて、協定世界時に置き換えられるまでは、グリニッジ天文台での時間計測に基礎を置いたグリニッジ標準時が用いられていた。グリニッジはもはや実用的な天体観測を主導する場ではないけれども、いまなお報時球は正確に午後1時を知らせるし、町にはジョン・ハリソンの海事クロノメーターをはじめとする天文学や航海術に関する道具を集めた博物館もある。

天文台は、プラセンティア宮殿の敷地を利用したグリニッジ公園内にある。公園にはイニゴー・ジョーンズ作のクイーンズ・ハウスを含む国立海事博物館 (National Maritime Museum) があり、全ての建築物は自由に訪れることが出来る。
ドール ワーカー イエロー コヒル ナツメグ トリックス パントリ スプーン パハク ツイン イートイ しゃみ プリズム リンゴ ストロベ チュー オムライス 冒険家 サイメッ チュートリ チョン フェニ キャン ファンブル フィス サザン ビエラ デパー 木綿のハン コイズ ラウンド ジンコール パフス マザー オシレー にっけ ベンチ こかげ チョッキ 日本全国 ユニタ タグカード オプテ ユトレ アドイン フリゲート 極楽トンボ トルリン ワスレナ フェミ

旧王立海軍大学 (The Old Royal Naval College) は、クリストファー・レンの手がけた丸天井付きの傑作で、世界遺産登録地の中央に位置している。ここはグリニッジ財団 (the Greenwich Foundation) が管理しており、毎日訪問者に無料で開放されている。旧大学内のいくつかの建造物はグリニッジ大学に貸されているが、the King Charles blockは、Trinity College of Musicに貸されている。また、ジェイムズ・ソーンヒル (James Thornhill) が塗装したペインティド・ホール (Painted Hall) やセント・ピーター、セント・ポール両礼拝堂(後者の内装はJames Athenian Stuartが手がけた)も、毎日グリニッジ・ヴィジター・センターからガイド付きツアーが出発している通り、一般に開放されている。

グリニッジには扇を集めた世界唯一の扇博物館 (Fan Museum) があるのも特徴的である。この博物館はクルームズ・ヒル10番地から12番地にあり、同じクルームズ・ヒルには、ネヴァダ・ストリートの交差点の角にグリニッジ劇場 (Greenwich Theatre) がある。グリニッジには劇場が二つあるが、もうひとつはグリニッジ・プレイハウス (en:Greenwich Playhouse) である。

クリッパーの「カティーサーク」は川沿いの乾ドックで保存展示されている。2006年から帆船の大規模な保存プロジェクトが始動し、2008年9月に終了する予定であった。しかし2007年5月21日に火災事故が発生、現在復元の見通しは立っていない。現在船や周辺にアクセスすることは、修復の都合で制約されるが、それはこのサイト(外部リンク)で確認が取れる。そのそばには、長い間、フランシス・チチェスター (Sir Francis Chichester) が226日間世界一周(1966年 - 1967年)を行ったケッチである「ジプシー・モス4世号」(Gipsy Moth IV) も展示されていたが、第二の航海歴を積み重ねるための大規模な修繕のために2004年に移送された。

カティーサークのそばには、テムズ川の北側のアイル・オブ・ドッグズ (Isle of Dogs) へ行くための歩行者用のトンネル「グリニッジ・フット・トンネル」(Greenwich foot tunnel) がある。トンネルの北側の出口はアイランド・ガーデンズ (Island Gardens) にあり、そこからはカナレットが描いたグリニッジ病院の有名な眺めを望むことが出来る。病院の北西の角の前の川沿いに、北極探検者のジョゼフ・ルネ・ベロー (Joseph René Bellot) を記念するオベリスクが立っている。

ミレニアム・ドームは、グリニッジ半島のブリティッシュ・ガスの使われなくなった敷地に建てられた。これは地下鉄のノース・グリニッジ駅に隣接し、グリニッジ中心街からはおよそ5kmのところにある。ドームの南には、都市の再開発地区であるグリニッジ・ミレニアム・ヴィレッジ (Greenwich Millennium Village) が存在する。

都市中心部の西側に建っているのがセント・アルフィージ教会 (St Alfege's Church) である。この教会が建っている場所は、1012年にカンタベリー大主教アルフィージが殺害された場所であり、現在の教会は1714年に建築家ニコラス・ホークスムーア (Nicholas Hawksmoor) が手がけたものである。

都市中心部では、週末にはグリニッジ市場 (Greenwich Market) が多くの観光客で賑わう。

2009年02月23日

ベルベル語

ベルベル語は現在主にモロッコ、アルジェリアで話されているアフロ・アジア語族の言語である。正確にはベルベル語派乃至ベルベル諸語と呼ぶべき物で、少しずつ異なる同系統の言語の総称であり、大きく分けて、タリフィート、タマズィグト、タシュリヒートの三つの方言がある。タリフィートは北モロッコ、タマズィグトは中央モロッコ、タシュリヒートはアルジェリアで話される。

ベルベル語はどの国でも公用語ではないが、ベルベル語話者の中には他の言語を話せない人もいる。モロッコ、アルジェリアともアラビア語を重要視する政策をとるため、話者は辺鄙な山間部の村などに多く、家庭の中でしかベルベル語を話さないこともある。しかし、ベルベル語はアラビア語が広まる以前には、北アフリカで幅広く話されていた言語である。
久兵衛 弁慶国内 ユニット ノール とうもろこし レーズン おっくう ジャル パイダー デザート カメオ 四ツ溝柿 ドヤム ハマー ジグ ブルー フライス デリー トレイル 養老 チロリ パンテ スパイラル ティッカー イール シドニー ハナタ フィッ ノンド キーロガー シャワ バクー国内 プレーヤー ピエタ タリン 白い香 オリーブ ライプ カップル 眠り姫 ネブラ リンス 待ちぼうけ ワースト スマート フリーレ ドックス デッサン ズバー

ベルベル語話者は「ベルベル語」という呼称を一般に好まない。これはベルベルがギリシャ語で「言葉がわからない人」を意味するバルバロイから由来することによる。今日ヨーロッパ諸国で比較的よく用いられる言い換えは、本来北モロッコで話されるベルベル語を意味するタマズィグトである。特に北部ベルベル語を指すときにはこの表現が好んで用いられる。

北アフリカ諸国ではベルベル語話者を公式の人口統計で集計していないため、ベルベル語話者の正確な人口を知ることは困難である。ベルベル語話者はモロッコ、アルジェリアのほか、中央アフリカ諸国、エジプト、フランスなどに住む。1955年の A. バセットの概算によれば、ベルベル語話者の人口は全世界で約550万人である。

永きに渡って他の民族による侵略と支配を受けてきたベルベル人の歴史を反映して、ベルベル語には多くの他の言語の痕跡が刻まれている。フェニキア語、ラテン語、ゲルマン語、ギリシャ語など古代にベルベルを征服した民族の言語からの借用語も少なくないが、もっともベルベル語に影響を与えたのはアラビア語である。イスラーム教徒の北アフリカ侵入とベルベル人居住地の征服により、ベルベル人はイスラーム化が進み、言語的にもアラビア語の強い影響を受けた。現在のベルベル語がアラビア文字で書かれることが多いのも、アラビア語の影響であることは言うまでもない。さらに近現代に入ると、スペインとさらにはフランスの侵略と植民地支配により、ベルベル語にはスペイン語やフランス語の単語が多く流入した。

他の言語への影響
ベルベル語はマグレブのアーンミーヤの基層言語として、これらの言語に影響を与えた。これはエジプト・アラビア語に対するコプト語の役割と類似している。またムスリムのイベリア半島支配の結果として、スペイン語やポルトガル語などのイベロ・ロマンス諸語にはアラビア語ほどではないにせよベルベル語の影響が見られる。そしてベルベル人とアラブ人のサハラを越えたブラック・アフリカへの遠征と征服、およびイスラームの普及に伴って、いくつかのブラックアフリカの言語はアラビア語とともにベルベル語の影響を受けた。

2009年02月07日

足利成氏

足利 成氏(あしかが しげうじ、1438年(永享10年)- 1497年10月25日(明応6年9月30日)、在位・鎌倉公方:1449年 - 1455年/古河公方:1455年 - 1497年)は第5代鎌倉公方・初代古河公方。
とまま 月の微笑 アテンポ アトゥドア トリビュ ブイWEB イアリン リスト タンザ マルチ ティック ガーナ デジャブ ぴっこ エミュー レーター マルク レンジャー チータ リーシム タカス イミング チャー オペレ トサミズ イチョウ ワラント ギアサン ミヤマ 一意専 ツァーリ テーマ ネメシア チャック プラグ フレンドリー キープトコ えいち リユース パラソル みるいろ ミル スキーヤー ダイウェブ フリータ カツラ ブラジル レジデント パテ シマル

室町時代に永享の乱で敗死した第4代鎌倉公方 足利持氏の男子であり、兄弟は、義久、春王丸、安王丸など。幼名は永寿王丸(永寿丸)とする解説が多いが、万寿王丸とする百瀬今朝雄の説が、近年は支持されている。生年は、1434年とする説も有力。また鎌倉公方就任時期は、1447年とする説も有力である。子に、足利政氏、上杉顕実(上杉顕定の養子となり関東管領を継ぐ)、貞巖昌永(甘棠院開山・一説には政氏の子[1])ら。

成氏は父持氏と同様、鎌倉公方の補佐役である関東管領および室町幕府と対立したが、持氏と異なり、約30年間の享徳の乱を最後まで戦い抜き、関東における戦国時代の幕を開ける役割を担った。
幼少期には、あいまいな点が多い。生年に関しても、1434年あるいは1438年とする解説が混在する[2]。現在広く用いられている解説を整理すると、主に次の二つになる。

一つは、嘉吉元年(1441年)の結城合戦で安王丸・春王丸の他にも、持氏遺児の4歳の童が捕えられたが、京都への連行中に、将軍足利義教が殺された(嘉吉の乱)ため、処分が実行されず、幸運にも生き延びた(『建内記』)。この4歳の童を成氏とみなす。逆算すると生年は1438年となる。その後、宝徳元年(1449年 )8月に、京都の土岐持益邸にいた持氏遺児が鎌倉に向け出立(『草根集』)し、鎌倉公方となったとする。

もう一方で、百瀬今朝雄は以上の通説を再検証し、宝徳元年8月に京都から鎌倉に向けて発った人は、成氏ではなく弟の尊敒であるとした[4]。佐藤博信も、尊敒を定尊と見直しているが、成氏の弟とする点では同様の見解である[5]。成氏本人は京都ではなく信濃から、文安4年あるいは5年に鎌倉に還御して鎌倉公方となり、宝徳元年6月から8月に元服したとする[4]。佐藤はさらに、鎌倉公方就任を文安4年3月[6]、鎌倉帰還を同年8月27日[7]と特定した。

百瀬以降の研究成果に従えば、幼年期の経歴は次の通り。成氏は第四代鎌倉公方足利持氏の男子として、永享6年(1434年)頃に生まれた[8]。成氏がまだ幼い永享11年(1439年)に、父の持氏は、関東管領上杉憲実・将軍足利義教と対立した結果、兄の義久とともに敗死(永享の乱)し、鎌倉公方は廃止された。その後、成氏は信濃国佐久郡の大井持光のもとで養われる[9]。同12年(1440年)3月に 結城合戦が始まり、嘉吉元年(1441年)4月に結城城が陥落した時に、持氏遺児の安王丸・春王丸・成氏弟の三人が捕えられたが、成氏本人は戦場にはいなかった。このとき、兄の安王丸・春王丸は殺された。やがて、成氏は文安4年(1447年)3月に鎌倉公方となり、8月に信濃から鎌倉に帰還した。のち宝徳元年(1449年)に元服、すなわち、6月ごろに将軍足利義成(当時)の一字を与えられて「成氏」という名が決まり、8月27日に左馬頭に任じられ、同時に従五位下に叙された[11]。

鎌倉公方の時代
鎌倉府再興
永享の乱の際に鎌倉府は滅亡したが、嘉吉元年(1441年)に将軍足利義教が殺された(嘉吉の乱)後、鎌倉府再興の運動が開始された。越後守護の上杉房定や関東諸士から幕府への働きかけ(『鎌倉大草紙』)、あるいは上杉氏一門家老から幕府への働きかけ(『永享記』)、幕府管領の畠山持国の支持[12]などの結果、文安6年(1447年)(または宝徳元年(1449年))に、鎌倉府再興が承認される。足利持氏遺児の成氏は信濃の大井持光(または 京都の土岐持益)のもとから、新たな鎌倉公方として鎌倉に帰還した。まだ年若い成氏は、鎌倉府再興のために運動した持氏旧臣や持氏方諸豪族、および結果的には持氏を殺した上杉氏など、利害が相反する人々の間に置かれることになった。

新しい鎌倉府では、鎌倉公方に足利成氏、その補佐役の関東管領に山内上杉憲忠(上杉憲実の子)が就任した。

江の島合戦
鎌倉府再興後も、成氏のもとに集まった旧持氏方の武将・豪族等と、山内・扇谷両上杉氏との緊張関係は改善されなかった。宝徳2年(1450年)4月には、山内上杉家の長尾景仲および扇谷上杉家の太田資清が成氏を襲撃する事件(江の島合戦)が発生する。成氏は鎌倉から江の島に避難し、小山持政・千葉胤将・小田持家・宇都宮等綱らの活躍により、長尾・太田連合軍を退けた。なお、このとき上杉方の一部も成氏に加勢している。 従って、この襲撃は長尾・太田両氏が主導したが、上杉氏の本意ではなかったと考えられる。

難を逃れた成氏は、上杉憲実の弟である道悦の調停により、合戦に参加した扇谷上杉持朝らを宥免したが、長尾景仲・太田資清との対決姿勢は崩さず、両者の処分を幕府に訴えた。幕府管領の畠山持国は成氏の求めに応じて、上杉憲実・憲忠に対して、鎌倉帰参を命じ、関東諸士および山内上杉氏分国の武蔵国・上野国の中小武士に対して、成氏への忠節を命じた。また、江の島合戦の成氏側戦功者への感状を取り計らうなどしたが、長尾・太田両氏への処罰はあいまいにされた。結局、成氏自身は8月4日に鎌倉へ戻り(『喜連川判鑑』)、上杉憲忠は10月頃に関東管領として鎌倉に帰参した(『鎌倉大草紙』)。

鎌倉公方の動揺
同じ宝徳2年、成氏は鎌倉に戻った後に代始めの徳政を行った。例えば、9月と10月に鶴岡八幡宮寺少別当が売却した土地を返却させている。関東諸国に向けて、新しい鎌倉公方の権威を誇示する目的であったと考えられる。宝徳3年(1451年)、成氏は従四位下左兵衛督に昇進した(『喜連川判鑑』など)

享徳元年(1452年)、室町幕府の管領が、畠山持国から細川勝元に替わった。勝元は、鎌倉公方に対して厳しい姿勢をとり、関東管領の取次がない書状は受け取らないと言い渡した[16]。関東管領を通じて、再び幕府が関東を直接統治する意思を示したものである。

古河公方の時代
享徳の乱勃発と成氏勢攻勢
享徳3年(1454年)12月27日に、成氏は関東管領の上杉憲忠を御所に呼び寄せて謀殺した。京都では東国から事件の報せが届いたとき、父を死に追いやった上杉氏への恨みが原因とみなされた(『康富記』)が、実際には鎌倉府内部の対立が大きな要因と考えられる[17]。[4][18]

この憲忠謀殺をきっかけとして、以後約30年間におよぶ享徳の乱が勃発する。 翌享徳4年(1455年)正月に、成氏は上杉勢の長尾景仲・太田資清を追って鎌倉を進発した[19]。正月廿一日(21日)・廿二日(22日)の武蔵分倍河原の戦いでは、上杉憲顕・扇谷上杉顕房を戦死させた[20]。3月3日には、成氏は下総古河に到着しており[21]、さらに各地を転戦する。敗れた上杉勢が常陸小栗城に立て籠もると、成氏はさらに攻め立てて、閏4月に小栗城を陥落させた(『鎌倉大草紙』)。

上杉勢反攻と成氏の古河移座
山内上杉氏は、房顕を憲忠の後継とし、体制の立て直しを図った。室町幕府は上杉氏支援を決定し、享徳4年(1455年)4月に後花園天皇から成氏追討の綸旨と御旗を得たために、成氏は朝敵となる。房顕は上野平井城に入り、越後上杉氏の援軍と小栗城の敗残兵が、下野天命(佐野市)・只木山に布陣した。成氏は6月24日に、天命・只木山の西にある現在の足利市に布陣して対抗したが、7月には小山に移動している。一方、駿河守護今川範忠は、上杉氏の援軍として、4月3日に京都を発ち(『康富記』)、6月16日には鎌倉を制圧した(『鎌倉大草紙』)。

その後、成氏は鎌倉を放棄し、下総古河を本拠地としたので、これを古河公方と呼ぶ。享徳4年(1455年)6月に古河鴻巣に屋形(古河公方館)を設け、長禄元年(1457年)10月には修復が終わった古河城に移った(『鎌倉大草紙』)。古河を新たな本拠とした理由は、下河辺庄等の広大な鎌倉公方御料所の拠点であり、経済的基盤となっていたこと、水上交通の要衝であったこと、古河公方を支持した武家・豪族の拠点に近かったことなどが挙げられている。古河公方側の武家・豪族の中でも、特に小山持政は、成氏がのちに兄と呼ぶ(兄弟の契盟[22])ほど強く信頼しており、同様に強固な支持基盤となった結城氏の存在とあわせて、近接する古河を本拠とする動機の一つになったと考えられる[23]。[18]

成氏は幕府に対して、これは上杉家との抗争であり、幕府には反意がないことを主張した[24]が、回答は得られなかった。京都では、享徳4年に康正・康正3年には長禄と立て続けに改元されたものの、成氏は「享徳」を使用し続けて、幕府に抵抗する意思を示す[25]。[4][18][26]

成氏勢と上杉勢の対峙
上杉勢は、康生元年(1455年)12月に下野天命・只木山の陣が崩壊し[27]、康生2年(1456年)9月の武蔵岡部原合戦[28]でも敗退したが、長禄3年(1459年)頃に、五十子陣(本庄市)を整備し、さらに河越城(川越城)・岩付城(岩槻城)・江戸城などの攻守網を完成させた。一方、成氏も古河城を中心として、直臣の簗田氏を関宿城、野田氏を栗橋城、一色氏を幸手城、佐々木氏を菖蒲城に置くなど攻守網を形成し、両者が拮抗するようになった。長禄2年(1458年)、室町幕府は成氏に対抗するため、将軍義政の弟政知を新たな鎌倉公方として東下させた[29]。政知は伊豆堀越にとどまり、ここに御所をおいたので、堀越公方と呼ばれる。以後、おもに下野国・常陸国・下総国・上総国・安房国を勢力範囲とした古河公方・伝統的豪族勢力と、おもに上野国・武蔵国・相模国・伊豆国を勢力範囲とした幕府・堀越公方・関東管領山内上杉氏・扇谷上杉氏勢力とが、関東を東西に二分して戦い続ける。武蔵国北部の太田荘周辺と、上野国東部が主な戦場であった。[18][26]

享徳の乱終結
文明3年(1471年)3月、成氏は小山氏・結城氏の軍勢とともに遠征して、伊豆の堀越公方を攻めたが、敗れて古河城に撤退した(『鎌倉大草紙』)。この遠征失敗の影響は大きかった。幕府の帰順命令に、小山氏・小田氏等の有力豪族が応じるようになった[30]ため、古河城も安全ではなくなり、5月に上杉勢の長尾景信が古河に向けた総攻撃を開始すると、本佐倉の千葉孝胤のもとに退避した(『鎌倉大草紙』)。しかし上杉勢も古河城に入るだけの力がなく、文明4年には結城氏や弟の雪下殿尊敒の支援により、成氏は古河城に帰還し、のちに小山氏も再び成氏方に戻った。[18][26]

一方、文明8年(1476年)、山内上杉家では、家宰の後継争いが原因となり、長尾景春の乱が発生した。文明9年(1477年)正月、景春は武蔵鉢形城を拠点として、上杉勢の五十子陣を攻撃し、これを破壊したため、対古河公方攻守網の一角が崩れる。最終的に、景春の反乱は扇谷上杉家の太田道灌の活躍によって鎮圧されるが、上杉氏の動揺は大きかった。古河公方勢との戦いだけではなく、上杉家内部の対立や山内・扇谷両上杉氏間の対立が大きな問題となったのである。文明十年正月に成氏と上杉氏との和睦が成立(『松陰私語』)すると、長年難航していた幕府との和睦交渉も、越後上杉房定が幕府管領細川政元との仲介に立つことで進展し、文明14年11月27日(1483年1月6日)に古河公方と幕府の和睦が成立した[31]。これを「都鄙合体(とひがったい)」)と呼ぶ。この結果、堀越公方は伊豆一国のみを支配することとなり、政治的には成氏の関東公方の地位があらためて幕府に承認されたと考えられる。

晩年
都鄙合体の後、成氏は朝敵の汚名から解放され、嫡子の政氏の名前も将軍義政から一字を譲り受けた。成氏が用いた「享徳」年号も、享徳27年(文明10年、1478年)以降の記録はない。しかし、その後も、古河公方と堀越公方の並立、山内・扇谷両上杉氏間の抗争(長享の乱)勃発など、不安定な状態が続き、成氏が鎌倉に戻ることはなかった。長享3年(1489年)の文書に、政氏の証判が見られることから、このころには家督を譲っていたとも考えられている。成氏は、明応6年(1497年)九月晦日(30日)に古河の地で没した。64歳であったとされている(『古河公方系図(続群書類従)』など)。[18][33]

法名:乾享院殿久山道昌。墓所:栃木県野木町の満福寺。

2009年01月22日

カワード王の死後跡を継いだホスロー1世

カワード王の死後跡を継いだホスロー1世の治世はサーサーン朝の最盛期といわれる。ホスロー1世は父王の政策を継承して大貴族の影響力排除に努めるとともに、マズダク教の活動を鎮定して社会秩序を回復し、また軍制改革に取り組んだ。とりわけ中小貴族の没落を回避するために、軍備費用の自己負担を廃止して武器を国家支給とした。一方で宗教政策に力をいれ、村落レベルにまで聖なる火の崇拝を行き渡らせるなどして教会制度の再編を試みた。

一方東ローマ帝国ではキリスト教学問の発達に伴って異教的学問の排除が進み、529年にはアテネのアカデミアが閉鎖された。このために失業した学者が数多くサーサーン朝に移住し、ホスロー1世は学問を奨励して彼らのための施設を作って受け入れた。この結果ギリシア語やラテン語の文献が多数翻訳されるなどし、また現存するサーサーン朝の文書の多くがこの時期に作成されたものである。

ホスロー1世は東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世が西方重視の姿勢を取っているのに乗じて東ローマに圧力をかけて貢納金を課すとともに度々東ローマに侵入して賠償金を得た。その後東ローマと50年間の和平を結んで西方国境を安定させると、東方では影響力を拡大していたエフタルに対し突厥と同盟を結んで攻撃をかけた。この結果長きにわたってサーサーン朝を圧迫したエフタルを滅ぼすことに成功した。一方突厥との友好関係をその後も続けるべく婚姻外交が推し進められたが結局対立し、今度は突厥の脅威に対抗しなければならなくなった。結果として東方ではエフタルを滅ぼしたものの大きく勢力を拡大するには到らなかった。

滅亡
ホスロー1世の死後、息子のホルミズド4世が即位した。彼は比較的安定した治世を築いていたかに見えたが、590年にはクーデターにあい、両目を潰された後処刑された。そしてホルミズド4世の息子ホスロー2世が即位したが、東方でバフラーム・チョービンの反乱が発生したためにホスロー2世は東ローマとの国境地帯まで逃走した。そして東ローマ皇帝マウリキウスの援助を得て反乱を鎮圧したが、東ローマで政変がおこりマウリキウスが殺されてフォカスが皇帝となると「仇を討つ」として東ローマを攻撃した。この対東ローマ戦争は初戦で大成功を収め、シリア、エジプト、アナトリア全域を占領し、あたかもアケメネス朝が復活したかのような領域を支配下に治めることに成功した。この時エルサレムからキリストが磔になったという「真なる十字架」を奪って持ち帰ったという。

しかし、610年にフォカスを倒して東ローマ皇帝となったヘラクレイオスは622年から反撃に転じると、被占領地を迂回して黒海東南部沿岸から直接サーサーン朝の中枢部メソポタミアへの攻撃を開始した。サーサーン朝はアヴァール人と共同で、皇帝が不在な東ローマの首都コンスタンティノポリスを包囲したが撃退されてしまい、戦況は逆転。今度はヘラクレイオス率いる東ローマ軍にクテシフォン近郊まで攻め込まれてしまった。その結果クテシフォンで反乱が発生し、ホスロー2世は息子のカワード2世にも裏切られて殺された。

カワード2世は即位すると東ローマとの関係改善に取り組み、「真なる十字架」を返還した。しかし間もなく病死してしまい、その後激しい王位継承の内戦が発生した。長期に渡る政治混乱の末ヤズデギルド3世が王座を獲得したが、サーサーン朝の国力は東ローマとの戦いと内乱とで消耗してしまっていた。

そんな時に、アラビア半島から勃興したイスラム帝国が勢力を拡大し、サーサーン朝に侵入した。もはやサーサーン朝に新たな敵に対処できる力は残っておらず、636年カーディシーヤの戦いでサーサーン朝は敗北し、更に642年にはニハーヴァンドの戦いでも敗北を喫してサーサーン朝は事実上崩壊した。ヤズデギルド3世は尚も再起を目指して東方に逃げたが、651年、部下の裏切りにあって殺害され、ここに名実ともに王朝は滅亡した。

ササン朝ペルシアの滅亡は、イスラーム教徒にとってはイスラーム共同体が異教の大帝国を屈服させ、名実共に世界帝国へと発展していく契機となった栄光の歴史として記憶されている。一方でゾロアスター教徒にとっては、これ以降彼らがイスラームの支配下で現代に至るまで二等市民としてさまざまな差別をこうむり続けた原因として捉らえられている。

年表
208年 バーバクがパールス地方を統一。サーサーン朝の基礎を起こす。
226年 アルダシール1世がパルティア(アルサケス朝)を滅ぼし、イラン・メソポタミアを統一。
240年頃 シャープール1世、クシャーナ朝に遠征し、ガンダーラを奪う。
260年 シャープール1世、エデッサの戦いでローマ帝国と戦い、ローマ皇帝のウァレリアヌスを捕える。捕虜としたローマ人を移住させ都市や橋などを開発させる。
350年頃、シャープール2世、クシャーナ朝を破り、再度征服。
363年 シャープール2世、ローマ皇帝ユリアヌスを敗死させる。
409年 キリスト教寛容令。
425年 エフタルの侵入開始。
428年 アルメニア王国を廃止し、サーサーン朝知事を置く。
484年 ペーローズ1世、 エフタルとの戦闘で戦死。
540年 ホスロー1世、アンティオキアを占領。
567年 ホスロー1世、エフタルを滅ぼす。サーサーン朝の最盛期。
575年 ホスロー1世、イエメンに軍隊を派遣し、占領。
616年 ホスロー2世、東ローマ帝国からシリア、エジプトを奪う。
626年 逆襲に出た東ローマ皇帝ヘラクレイオスに首都クテシフォンまで進撃され、征服地を奪還される。
637年 カディシーヤの戦いに敗北、ムスリム(イスラム教徒)のアラブ人に敗れ、そのままクテシフォンを占領され、急速に衰退。皇帝ヤズダギルド3世はイラン高原に退去。
642年 ハマダーン近くのニハーヴァンドの戦いでも敗北。これが最後の国家的規模の戦闘となる。
651年 ヤズダギルド3世逃亡先で暗殺される。ササン朝滅亡。
661年 ヤズダギルド3世の子、ペーローズ、唐王朝に亡命。

文化
この王朝で育まれた文化は後のイスラム時代の文化にも多大な影響を残した。

宗教的特徴とマニ教の成立
サーサーン朝時代は、西からキリスト教、東から仏教が浸透し、パレスチナを追われたユダヤ人は、サーサーン朝治下のバビロニアでタルムードを編纂した。サーサーン朝はインド、クシャーナ朝、ローマ帝国、中国、突厥など、当時の世界帝国と交流があり、ユーラシア西部の文明の一大中心地であり十字路でもあった。このような素地の中で、インド文学、ギリシャ文学などを総合したアラビアンナイトの原型「ハザール・アフサーナ」が誕生し、キリスト教、ゾロアスター教、仏教などの世界宗教を総合するマニ教が誕生した。反面国家と結びついたゾロアスター教は、キリスト教の東方への浸透と、仏教の西方への浸透を阻む役割を果たした。

銀貨
サーサーン朝で鋳造された銀貨は、ソグド人などの中央ユーラシア社会における高額決裁などの基軸通貨として大変尊重された。

自国歴史の編纂
サーサーン朝ではもともとゾロアスター教の宗教観に影響されて、文字資料の作成が忌まれていたようで、自ら歴史を編纂する事が無かったようである。そのため、サーサーン朝の歴史についてはアッバース朝時代のウラマーであるタバリーが著した『諸使徒と諸王の歴史』収録の記事が現存する通史として最古であり、他にはサーサーン朝の歴代君主たちが残した碑文群やマニ教文書、タバリーとほぼ同時期に作られたパフラヴィー語による文書資料群、ラテン語、ギリシア語、シリア語などの年代記、貨幣資料などによって歴史や文化などが研究されている。

手工芸
ガラス器や銀製品などの工芸品は、世界史上に残る工芸品である。7世紀の日本に渡来した文物は、正倉院に今も収められている。またペルシャ錦といわれる織物が成立した。
サクソニ ルンバー ソブー ミルク てやり ライフ レビス 待ちぼう マジシャン 青春 オーバ フェー スクリュー ディトム チグリ ファーレ レギュレ レゾナ クホス フェムド オタク サテュロス マキシ るもい ステッチ チヂミ ボート トップ ジャッ 大同情報 ジュラル ストロ カバオ ルビー ブロー キング イラマチオ 月夜の オブシデ ジップ ギモーブ マッチ 幸運快適 つる菜 ラナイ メコン リイシュー スラッシ ローテー だて

料理
ホスロー2世の時代に絢爛豪華で洗練された宮廷料理が成立し、サーサーン朝滅亡後もアッバース朝イスラム帝国の上流階級に引き継がれ、後には南アジア、中東、北アフリカにまで影響を及ぼした。記録に残っている料理には、ケバブやブドウの葉のドルマが含まれている[1]。

歴代皇帝
歴代君主の称号はシャーハンシャー(諸王の王)である。

アルダシール1世 (224年-241年)
シャープール1世 (241年-272年)
ホルミズド1世 (272年-273年)
バハラーム1世 (273年-276年)
バハラーム2世 (276年-293年)
バハラーム3世 (293年)
ナルセ1世 (293年-302年)
ホルミズド2世 (302年-309年)
アーザルナルセ (309年)
シャープール2世 (309年-379年)
アルダシール2世 (379年-383年)
シャープール3世 (383年-388年)
バハラーム4世 (388年-399年)
ヤズデギルド1世 (399年-420年)
バハラーム5世 (420年-438年)
ヤズデギルド2世 (438年-457年)
ホルミズド3世 (457年-459年)
ペーローズ1世 (459年-484年)
バラーシュ1世 (484年-488年)
カワード1世 (488年-497年、復位:499年-531年)
ジャーマースプ (497年-499年)
ホスロー1世 (531年-579年)
ホルミズド4世 (579年-590年)
バハラーム6世 (590年-591年)
ホスロー2世 (590年-628年)
カワード2世 (628年)
アルダシール3世 (628年-630年)
シャフルバラーズ (630年)
ボーラーン (630年-631年、女帝)
アーザルメードゥフト (631年-632年、女帝)
ホスロー3世 (630年?-632年?)
ホルミズド5世 (630年?-632年?)
ヤズデギルド3世 (632年-651年)
ペーローズ2世 (唐に亡命)

2009年01月15日

立体化学(りったいかがく、Stereochemistry)

バポス ランパン スモーク ワード ねじめ ブルー ケチャ ゴム編み じゃっこ リッチ マリンスノ ラーマー パブコメ フェテ タリア 森の小人 ザイール パパ シエナ ユニット アセビ ムスク フォルタ メンテ ミサンガ ディス ジーンズ ニュート ブラッシ ブロック タイチュー ブルネット フラワー チュート ダブル クーチュ エアリアル スワジ 地平線 セミオート パテント 黒いカバン リンパ バトン 人魚姫 ハンドガン ラスプーチ スイン クラウト ターテー

体化学(りったいかがく、Stereochemistry)とは、分子の3次元的な構造のこと、あるいはそれを明らかにするための方法論や、それに由来する物性論などを含めた学問領域をいう。

化学物質の立体的な構造は、その物性に極めて大きな影響を及ぼす。したがって、立体化学は化学のなかでも最も基本的かつ重要な項目である。しかしながら、あまりにも基本的な分野であるためか、講義科目や教科書名では多用されるものの、自らを「立体化学者」と名乗る人はおそらくいない。

ある分子について、それを組み立てている元素の種類と数を表したものが分子式である。しかしながら、同じ分子式であっても、各原子同士の結合の種類や方向、すなわち分子構造が異なると、全く性質の異なる分子となる。このように、同じ分子式でありながら構造が異なるものを異性体という。また、ある分子が異性体に変化することを異性化という。

異性体には、大きく分けて構造異性体と立体異性体がある。立体異性体はさらに幾何異性体とジアステレオマーおよび光学異性体(鏡像異性体)に分類される。

立体異性体の原因となるような、通常では非可換な原子の空間的な配置を立体配置という。また、室温で容易に変換しうる空間配置を立体配座という。

以下に立体化学で取り扱われる主な項目を概説するが、詳しくはそれぞれのリンク先を参照されたい。

構造異性体
構造異性体とは、分子式は等しいものの、原子のつながり方(示性式)が異なるもの同士をいう。例えば、1-プロパノール CH3−CH2−CH2−OH と2-プロパノール CH3−CH(OH)-CH3 は互いに構造異性体である。

立体異性体
立体異性体とは、分子式および構成原子のつながり方までは等しいものの、原子同士の空間的な配置が異なるもの同士をいう。その結合様式の違いから、幾何異性体とジアステレオマーおよびエナンチオマー(光学異性体)に分類される。

不斉源がn個ある場合、その化合物の異性体は2n個でき、そこから2つ選択したときの各々の関係は、ジアステレオマーかエナンチオマー、あるいはメソ体の関係になる。光学異性体を2次元平面上で表すには投影式を用い、光学異性体同士はRSやDLなどの命名法を使って表記する。

幾何異性体
幾何異性体とは、構成原子と結合関係は等しいが、空間的な構造が異なっていて、通常の条件では相互に非可換な異性体を言う。二重結合を持つ物質でのE体とZ体、正八面体型錯体におけるcis体とtrans体などの例がある。

ジアステレオマー
ジアステレオマーとは、不斉源を複数持つ化合物のうち、互いに鏡像ではない異性体である。例えば、2つの不斉炭素を持つ化合物において、RR体とRS体の関係をいう。また、この例で言えば、RR体をsyn体、RS体をanti体という。場合によってはerythro体・treo体、あるいはendo体・exo体という分類がされることもある。

ジアステレオマーのうち、特に一箇所だけ不斉が異なるもの同士をエピマーといい、エピマーになることをエピメリ化という。また、糖化合物ではアノマーが生成する。

エナンチオマー
エナンチオマー(光学異性体・鏡像異性体)とは、互いに鏡像関係にある異性体である。1つの不斉炭素であれば、R体とS体がエナンチオマーであり、2つの不斉炭素を持つ化合物においては、RR体とSS体がエナンチオマーになる。エナンチオマー同士はキラルであり、旋光度以外の物理的性質は完全に等しいため、分離するには特殊な方法を要する。

一対のエナンチオマーの当量混合物をラセミ体という。これは全く旋光性を示さないが、どちらかの鏡像体が多いと光学活性体となる。化学合成において、どちらか一方のエナンチオマーだけを合成することを不斉合成といい、その立体選択性は鏡像体過剰率で評価される。

立体配置と立体配座
立体配置とは、通常の条件では非可換な構造の違いをいい、上記の立体異性体の元になるものである。

立体配座とは、原子団の相対的な立体配置のことをいい、単結合周りの回転のように、自由に変化する。相対的な位置関係によって、単結合回りではゴーシュ・エクリプス・スタッガード・アンチ(トランス)、シクロヘキサンなどの平面に対してはアキシアル・エカトリアルという区別をする。クラム則によって反応性を議論する際などには重要である。

立体化学の決定法
単純な有機化合物の場合は、NMRによってほぼ完全に立体化学を決定することができる。近年では新モッシャー法などの発展により、絶対立体配置も決定できるようになってきた。しかし現在のところは、単結晶を作成してX線構造解析をするのが最も確実である。